何も思わずに生きることが出来たら。
 美魚は、毎日考えていた。それは、もしかしたら幸せなことかもしれない、と。
 ふらふらと、学校へも行かずに街を歩き、お腹が減ったら喫茶店に入り食事をとり、夜になったら家に帰り眠る。そんな生活を送っていた。アルバイトをしようといくつか面接を受けたがことごとく落ちた。自分がこの世界で必要のない人間だと宣告されているようで、それからは募集すら見ていない。途中から、更にパチンコなんて悪い遊びも追加された。両親には合わせる顔が無かった。
 一度、煙草の匂いをつけたまま帰った美魚に、どういうことだと問い詰めてきたことがある。放っておいて欲しい。わたしはもう大学生なんだから、自分のことは自分でできるし、自分で責任を取るから。そう言って、部屋に帰って服を脱ぎ捨て布団に潜り込み、そのまま眠った。それから、どれだけ遅い時間に帰ってきても、朝に帰ってきても、果ては二晩帰らなくとも、両親は何も言ってこなくなった。
 一言だけ、母親には言われた。「悩みがあるなら相談しないさい」言えるわけがない。
 美魚は、寂しかった。ただ、それだけだ。
 一人でいることに慣れていた過去を思う。一人で食事をとり、一人で木陰で本を読む。一人で眠り、一人で起きる。そんな毎日の中でも、寂しいなんて露程も感じなかった。妄想の塊の妹を記憶の片隅に追いやり、けれども、彼女はわたしの中にいるのだ、とそれだけで心強くなった。
 ある時、いつものように木陰で昼食をとりながら本を読んでいると、お尻に何かがぶつかった。少し痛かった。なんだろうと見ると、そこには白いボールが転がっていた。どこから飛んできたのだろう、と周りを見回していると、クラスメイトの直枝理樹が走ってきた。それから、色んなことが起こって、彼女の中の妄想の塊は姿を消した。そして、妄想ではない、現実の仲間が出来た。
 その仲間と離れ、大学に入ると、待っていたのは圧倒的な孤独感だった。
 仲間と連絡をとろうにも、壊滅的機械音痴の美魚には、携帯電話の扱いなんて出来るはずも無かった。昔、理樹が丁寧に教えてくれたが、そんなことはとっくの昔のことで、何を押せばどうなるのか分からなかった。どっちが通話ボタンなのか。たまに大きな音を出したり、震えたりしたが、戸惑うばかりで、更にはパチンコ屋にいる自分を知られたくなくて、電話に出ることは出来なかった。受信したメールも開き方が分からない。送信も分からない。そもそもメールの画面が分からない。美魚が携帯電話で分かることは、充電の仕方ぐらいだった。
 ある程度、期間が空いてしまうと更に不安になった。
 いっそ携帯電話が使えないのならば、アナログな手段に出ようと思った。手紙を書こう。文通をしよう。なんて自分らしい手段だ。これしか無い。とんでもない名案を思いついた。すぐにかわいい花柄のレターセットを買い、手紙を書くことにした。そうして出せなかった手紙は今も美魚の机の上から二番目の引き出しの奥の方にしまい込んである。寂しい。会いたい。まるで恋人に送るような内容を上から下までびっしり書き込まれた紙を見て、自分でも気持ち悪いと思って捨てようと思ったが、捨てることも出来なかった。
 ならば、直接会いに行けばいいことだ。誰がどこに行ったのかは知っていた。住所も分かっている。それでも、誰のところにも足を運ぶことはなかった。
 怖かった。怯えていた。もし、会ったところで、いい顔をされなかったらどうする。拒絶されたらどうする。無視されたらどうする。笑顔を向けられなかっただけで、死んでしまうかもしれない。
 いつから、これほどに臆病になったのだろうと、考えて、やはり、あの出会いからだろうという結論に達した。
 わたしは弱い人間になった。一人じゃいられなくなった。一人はいやだよ。美鳥ももういない。本当に一人ぼっち。そんなのは無理。耐えられない。なんで誰も会いに来てくれないの。心配じゃないの。仲間じゃないの。友達じゃないの。電話で済ませるの。それって本当に友達なの。違うよね。勘違いしてたんじゃない。わたし一人がそう思ってただけで皆なんとも思ってなかったんじゃないの。
 一晩、マクドナルドにいた。ずっとそんなことを考えていた。飽きもせずに悩んでいた。堂々巡りで、どうしようもない。開いていた本は、一ページも進んでいなかった。ホットコーヒーはすっかり冷めてるし、ポテトもふやけて食べる気にならない。あまりのダメさに呆れて、自然と美魚は笑顔になっていた。もう、笑うしかなかった。
 店内でかかる曲に耳を傾ける。ありふれたラブソングだった。どこにでもあるメロディに、どこかで聞いたことのあるようなフレーズを叫び歌っていた。ダサ過ぎて、自然と笑いも冷めた。
 もうこんな時間だ。もう少し経てば、すぐそこのパチンコ屋が開店する。美魚はパチンコを打っている間だけは何も考えずにいられた。バカでかい騒音の中で、一万円という大金を紙くずみたいに扱える、まるで非日常にいるような感覚が生まれて、その中では、不思議と寂しさは消えてくれた。
 大学にも行かず、バイトもせず、家にも帰りたくない。仲間にも会えないし、会いに来てくれない。そんな美魚に残された、唯一の居場所。逃げ場。
 あーあ、と思っていると、ふと、奇跡でも起こったのか。寂しすぎて、幻覚でも見ているのか。それか、実は寝ていて夢を見ているのか。精神的にそこまで追い詰められた? いやいや、馬鹿な。
 信じられないことに、自分の目の前に嘗ての仲間の一人が現れた。棗恭介だった。
 ごしごしと目を擦った。消えない。頬を指でつねった。痛い。間違いなく、現実として、すぐそこにいた。
 こちらには気づいてないようで、喫煙コーナーでちゃっちゃかと食事を済ませ、煙草を吹かし時計を気にしていた。気づいて欲しかった。気づいてもらって、そして、声を掛けてもらいたかった。そう願いながら恭介のことをジッと見つめていた。しかし、恭介は外を見ているばかりで、店内には一切気を配っていなかった。
 願ってるだけじゃダメなんて分かってる。ラブソングは終わっていた。次に流れた曲は、何か分からない。でも、「がんばれ」とか「やってみろよ」とかそんな前向きな言葉ばかりが聞こえた。出来れば苦労しない。頑張れないからここにいる。立ち止まって動けないでいる。美魚にだって、そんなことは分かっていた。
 何も思わずに生きることが出来たら。それは幸せなことかもしれない。
 ここ最近、毎日考えていたこと。何も思わずに生きていたら、幸せも感じないよね。当たり前のこと。常識的に考えろ。
 がんばろう。やってみる。誰かは知らない。どんなアーティストだろう。分かったらCDを買って売上に貢献してあげよう。お金ならある。
 ここから、もう一度。
 やり直せるならやり直したい。
 席を立ち、煙たい一角へと歩を進める。一言目は考えた。後は流れに任せよう。グッと汗ばんだ手のひらを握る。がんばれ。やってみろよ。
「煙草、お吸いになるんですね」
 ここから、もう一度。









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