ノンコミタル






 朝、早くに家を出た。日の出間もなく頃。自転車にクーラーボックスを括りつけ、背中には釣竿、頭には麦わら帽子、首にはタオル。
 高校時代、色々ありはしたが、大学受験には成功した。高校を卒業して、一人暮らしを始めた。順調に人生を歩んでいる感触があった。それは、勘違いだったようだ。
 夏休みに入った。友達は、まだ一人もいない。
 大学という場所は自分から動き出さないと何も動かない場所だ。そう気づいたのが入学して一月ほど経った後だった。時既に遅し。周りはグループで固まっていた。サークルも新歓コンパが終わっていた。一人ぼっちだった。学食で、一人うどんを啜るのにもなれた。まあ、見事に楽しいキャンパスライフというレールからは振り落とされてしまったようだ。残念なことである。
 そして、実は、金も無かった。
 金に関しては保険金とか遺産とかそういう類のものはあるにはあるが、あまり手をつけたくはなかった。面倒だからバイトもしたくなかった。
 友達がいないことは生きる上では、それほど問題にはならない。別に高校時代の人間とは、たまに遊ぶのだから。しかし、金。こちらは非常に切実な問題である。一人暮らしをする上で、一番お財布事情を圧迫するのは、家賃。これは奨学金という、借金でなんとか賄っている。そして、食費。こいつが一番のネックだったりする。人は食べないと死ぬ。その事実を自らの身で体感できたことは非常に勉強になったようだ。
 たまたまテレビで一か月を一万円で過ごすという企画を見た。それがきっかけ。趣味と実益を兼ねて、気付けば近くの河原で毎日釣りをしている。夏休みに入って、日の出前に起き、日が落ちる頃に晩飯を抱えて家に帰る。そんな生活習慣になっていた。おかげで電気代は節約、暇つぶしも完了。嗚呼、しかし、虚しさだけは募っていく。
 自転車の鍵を開け、サドルに跨る。目的地はいつもの河原。昨日は雨が降った。今日は大漁の予感がする。そんな期待に胸を膨らませて、出発した。
 夏だが、早朝は少しだけ涼しい。この時間帯の空気が好きだった。自転車で風を切り裂くと、より気持ち良く感じる。メリハリの無い生活で唯一頭が冴える気がする時間が、この朝っぱらにチャリンコのペダルを漕ぐ時である。空も飛べそうな気がした。気のせいだ。
 無駄なカロリーを消費して、酸素を減らし、二酸化炭素を増やす。今日ものんびり死んでいく。










 餌には、いつもそこら辺の岩の下でずるずる動いているミミズを使っている。三匹ほど釣ったところで餌が無くなった。自前のスコップで穴を掘ってミミズを探していると、久方ぶりにほぼ時計としての機能以外使われることの無かった携帯電話が振動した。少し戸惑いつつ、着信の相手を見ると幼馴染の井ノ原真人からだった。
 真人は現在、浪人生をしている。彼という人物に最も似つかわしくない肩書きである。「俺、筋肉研究する!」と言って医学部を受験しようとして見事に足切りされて、凹んだ後、「俺、理樹と同じ大学に行く!」と言って見事に桜散り、「頭の筋肉が足りなかったのかっ」とか訳の分からないことを言い出して浪人することを決めた彼を、誰も止めやしなかった。
 久しぶりに通話ボタンを押してみた。少しドキドキした。
「おっす」
 久しぶりに聞いた真人の声は、やっぱり真人の声だった。
「今どこ?」
 河原で釣りをしていることを伝えると、二秒で行くと言われて、一方的に切られた。もう少し電話で話したかったのだが。若干の寂しさを感じつつ、穴掘りを再開。この時、既に二秒は経過していた。
 ミミズをタッパー一杯集めたあたりで、電話からもう結構な時間が過ぎた頃、やっと真人が河原に現れた。
「わり、遅れた」
 久しぶりに聞いた真人の肉声は、どうしようもなく真人だった。
 予備の釣竿を渡す。やっていいの? とジェスチャーを返されたので、右手親指をグッと立てて了承を示す。真人も同じポーズを取る。嬉しくなった。餌、とタッパーを渡す。ミミズにビビる真人。かわいいところがあるんだなぁ、と長い付き合いの幼馴染の珍しい仕草に新鮮さを感じる。なんでも知っているつもりだった。知らないことはまだまだある気がした。丁度、浮きが沈んだ。晩飯四匹目ゲット。
「おお、すげえな」
 真人の称賛する声に胸を張る。
「すげえちっちぇー」
 真人のケタケタ笑う声に肩を落とす。
「こういうの唐揚げにすると上手いらしいぜ」
 笑顔。真人はいつも笑顔だ。真人の釣竿にミミズをつけてあげた。ありがとうよ、と言われる。嬉しかった。
 二人で何も喋らず、魚釣りをする。電話が掛かってきた時点で感じたこと。真人は何か悩んでいるようだ。こちらから、何か悩んでいるのかい? と聞くのは野暮な気がした。だから、黙って魚を釣る。晩飯は、六匹に増えた。名前も知らない小魚。勝手にクドと呼んでいる。
「あのさ」
 満を持して、現在の釣果ゼロ匹の真人が口を開いた。
「結構な、勉強をな、頑張ってみたんだけどな」
 頭をボリボリと掻きながら、釣りの才能ゼロの真人が続ける。
「無理かもしれん。というか、無理っぽい」
 そう。一言返した。別に大学に行くだけが人生じゃない。大学に行ったって楽しいわけじゃない。寧ろ、今の自分はとっても苦しい。慣れたとか考えていた。それは言い訳。一年待てば、真人が来る。それを、糧に頑張っていた部分もあった。嗚呼、僕も大学辞めちゃおうかなぁ。
「は? 理樹、大学辞めるのか?」
 今の自分の状況を話す。初めて、人に話す。友達がいないこと。学食で一人で食べていること。金が無いこと。この小魚の名前を勝手にクドにしていること。
「そうかー」
 釣竿を脇に置き、真人はどっこいしょー、と河原に大の字で寝そべった。
「ままならねーなー、本当」
 真似をして寝転がる。視界の先には空があった。無駄に開けた青い空。雲になりたい、とか考えた。ふわふわーってどっかに行きたい、とか思った。
「本当ままならないよねー」
 声とともに、視界を縞縞模様が遮る。ふわりと浮かぶプリーツスカート。何気なく現れたのは高校時代の同級生だった。
「や」
「よ」
 真人も驚きも無く寝ころんだまま挨拶を返す。彼女の登場の仕方はいつもこんな感じだった。唐突にひょっこり現れて、気づいたら居なくなる。三枝葉留佳の一つの特徴と言える。だから、驚かない。彼女は、これが普通だから。
「驚かないのかあ。残念」
「慣れた」
「そっかぁ」
 やはは、と笑う。変わらない。その笑い方に何故か安堵する。変わらないことを望んでいるのだろうか。未だ置いていかれていないことに安心したのだろうか。パンツの柄も変わっていない。パンツ見えてるよ。そう注意してみた。
「見せてるんですヨ」
「いらんもん見せるな」
「真人くんのアホ。だから女にモテないんだ」
「女よりも筋肉が欲しい」
「相変わらず」
「今はそれよりも学力が欲しい……」
「切実だね」
「切実だ」
 真人はそう言うとため息を吐いた。パシャリ。シャッターを切る音がした。起きあがり、音の出所を見る。彼女の首には大きなカメラが掛けられていた。
「最近、これ、マイブーム」
「マイブームって、死語だろ」
「うっさいなぁ」
 更にパシャリ。
「理樹くんのアホ面ゲットー」
 アホ面と言われた。どちらかというと、ゲットーとか言って笑っている彼女の顔の方がアホ丸出しなのだが、それは言ったら可哀想なので、心の内にそっと仕舞っておくことにした。それにしてもいい天気だ。麦わら帽子を被りなおす。何も持ってきていない真人の頭にタオルを投げる。日射病になられでもしたら困る。
「ありがとよ」
「真人くんだけずるいー」
「お前、普通に帽子被ってるだろ。あの、あれ、西部劇帽子」
「テンガロンハットって言って」
「それ。カッコいいな」
「でしょでしょ」ご満悦、と言った表情。「お姉ちゃんからパクった」
「ああ、そういえば急に姉ちゃんできてたな。二木だっけ?」
「まあ、未だにそんな仲良くないんだけどね」
 やはは、と笑う。彼女の悩みが見えた。彼女もまた悩みを抱えているのだ。それが、なんだか嬉しい。自分の醜さが垣間見えた。
「おし」
 真人がガバっと勢いよく起き上がる。流石に筋肉を鍛えているだけあって、体のキレは凄まじい。河で魚が跳ねた。
「帰るわ。帰って勉強してみる」
「がんばれー」
「ああ」
 便乗して応援する。グッと真人が拳を突き出した。それに自分の拳を合わせる。何故か、もう一人も拳を合わせた。三人で拳を合わせた。
「若干一名、増えたが気にせん。お前らも頑張れ。俺も頑張る」
 オー。何となくの誓い。それだけでも、以前より頑張ろうと言う気になれたから不思議だ。
 拳を離して、真人は帰っていった。
「あ、言い忘れ」
 真人が戻ってきた。
「また、明日来るわ。じゃあな」
 ……さて。本日の釣果、クド六匹。まあ、今晩の飯は唐揚げにしよう。帰る準備を始める。
「ありゃ、理樹くんも帰るの?」
 頷く。
「じゃあ、私も帰ろ。バイビー」
 颯爽と去っていく。何しに来たのだろう。パンツを見せに来たのだろうか? たぶん、パンツを見せに来たのだろう。帰ろ。
 唐揚げはそこそこ旨かった。











「なあ、理樹」
 あれから毎日、真人は河原に遊びに来る。たぶん、勉強は諦めたのだろう。それならば、それでいいと思う。元々、真人には厳しいことだったのだ。脳みそまで筋肉の男に勉強しろと言うほうが酷なのだ。それに、毎日二人で釣りが出来ると思うと、それはそれで嬉しい。相変わらずの坊主っぷりには泣ける。
「ねえねえ理樹くん」
 そして、葉留佳さんもまた、毎日河原に遊びに来ていた。日に日に身につけてくる「お姉ちゃんからパクった」品が増えている。なんて手癖が悪いのだろう。まあ、悪戯してかまってもらう以外、付き合っていく方法を知らないのだろう。それに、二人より三人のほうが楽しい気がするので、まあ、邪魔をしない限りは、居てもいいのではないかと思う。パシャパシャ撮るカメラは少し鬱陶しいが。
「おーい、聞いてるか?」
 ぼーっとしていて聞いていなかった。真人のことだ。またくだらないことでも言っていたのだろう。
「おいおい、大丈夫か?」
 頷く。話を聞いていなかったことを謝り、もう一度話してもらう。しょうがないなぁ、とは言いながらも、再び同じ内容を話そうとしてくれる真人はやはりいい奴なのだろう。それに茶々を入れるのが、葉留佳さんの役目。なんだか、平和だ。もう、このままでもいいんじゃないかと思う。
 夏休みに入り、約一か月ほど経った。このまま学校に行かずに、魚を釣って生きていこうか。そうすれば毎日真人が来て、葉留佳さんが来て、グダグダして。そんな生活もいいかもしれない。だって、もう、今更無理なのだから。大学に溶け込むなんてこと。
 だって、僕はずっと皆に守られて生きてきたから。何を勘違いしてたんだろうね。なんでも出来る気でいたんだろうね。一番の馬鹿は僕だ。真人でも、葉留佳さんでも無い。僕が一番馬鹿なんだ。
 真人が受験を諦めた。僕はそれを見て、自分より下の人間がいると安心した。
 葉留佳さんはニートだ。僕はそれを見て、自分より下の人間がいると安心した。
 最悪だ。人として。心の中でこんなこと思いながら、外面ではニコニコ笑って付き合っている。僕は最低な人間だ。死んでしまいたい。このまま生きていたってどうしようもない。何かいいことがあるなんて、そんなことを思えるのは、子供の時だけ。あとは、優越感を探して、ぐるぐる回るだけの人生なんだ。たぶん、そうに決まってる。
「理樹、おい。聞けよ」
 またもや真人の話を聞きそびれた。懺悔なんざ家に帰ってからすればいいのだ。今はただ、このぬるま湯でゆっくりと半身浴をしていればいいのだ。
「ああ、もう! もう! くそ!」
 真人が突然じたばたと暴れだした。薬が切れたのだろうか?
「誰がジャンキーだ! おい理樹! もう我慢ならない!」
 見透かされていたのだろうか?
「お前も、俺も、あと三枝! お前もだ!」
「え? 私?」
「俺ら、こんなところで燻ってる場合じゃないだろ!」
「へ?」
 葉留佳さんと二人顔を見合わせる。何を言っているのだ。この筋肉だるまは。
「くそ。くそ。俺はこんなもんじゃねー! もっと出来るに決まってる! 理樹、お前はすげーいい奴なんだ。友達の一人や五憶人くらい軽く作れるに決まってるだろ!」
 五億は無理。
「三枝だって、姉ちゃんとかの前に就職するかなんかしろよ! お前なら植木職人とかなれるって!」
「別になりたくない」
「あー、くそ! 俺だってな、もう筋肉で空飛ぶなんざ朝飯前なんだよ! 勉強なんて出来ないけど筋肉はすげーんだよ! いいか見てろ! 三枝、お前俺が空飛ぶ瞬間を撮れよ!」
「まあ、飛べたらね」
「絶対だかんな! おっしゃー!」
 そうして真人は堤防から助走をつけて翔んだ。
 パシャリ。
 河に落ちた。











「へっくし」
 三人で堤防沿いを歩く。三人の中で一番近い家が僕の家だ。そこで服を乾かしつつ、風呂に入ってもらうことになった。流石に夏だと言っても、これほどびしょ濡れでは風邪を引いてしまうかもしれない。そうなると、困る。寂しい的な意味で。葉留佳さんも暇だから付いてくとのこと。
 先ほどの河にダイブするシーンの写真を見せてもらった。それはもう本気で空まで飛んでいきそうな勢いをもってはいた。しかし、現実は河へとボチャン。結局、夢を見ても駄目なんだと、そう現実を突きつけられる結果に終わった。所詮、そんなものなのだろう。
「へっくし」
「ダイジョブ?」
「丁度水浴びしたかったところなんだ」
「やっぱり、空なんて飛べなかったね」
 真人くんなら出来るかも、なんて……。やはは、と笑う。彼女も期待したのだ。このどうしようもない現実を真人が突き破ってくれるかもしれないと。僕も抱いてしまった想いを。
「今日は、調子が悪かった。だから、また挑戦する」
「マジで?」
「マジで」
 真人の目は本気だ。ダメだこいつ。
「無理だよ」
 立ち止まり呟く。いい加減期待させるだけなのはうんざりだ。
「人間が空飛ぶなんて無理なんだよ」
「分からんだろ」
「分かるよ。さっきだって結局落ちたじゃんか。びしょ濡れじゃんか」
「調子が悪かったんだ」
「もうやめてよ……」
 期待させるのは。
「くそっ! いいか見てろよ!」
 言うや否や、真人は濡れた服を脱ぎ捨てる。そして、再び河へと身体を向ける。
「いいか、理樹。俺は飛べる。だから、お前も友達が出来る。三枝も社会に出れる。それを証明してやる」
「やめてよ」
「いいや、やめないね。さっきのは多分、スピードが足りなかった」
 真人はクラウチングスタートの構えを取る。そして、「よーい」と自分で掛声を出した。グッと足に力が入るのが分かる。裸なので分かりやすい。
「ドン!」
 その掛け声とともに溜めた力を爆発させる。風が走った。
「あ」
 そして、丁度通りかかった車に跳ね飛ばされた。
「ぐえ」
 空をぐるんぐるん回りながら飛んでいる。真人は今、筋肉で空を飛んでいる!
「真人! 飛んでる! 今、真人は空を飛んでるよ!」
 隣で葉留佳さんがパシャリパシャリと連続でシャッターを切る。
「真人ー! 飛んでるよー! ひゃっほー!」
 飛んでいる真人は笑顔だった。たぶん。僕にはそう見えたから。ぎゃーって聞こえたけど、真人はきっと笑顔だった。間違いない。











 当然の如く、真人は入院した。怪我は右足の骨折。それだけで済んだのは奇跡なくらい吹っ飛んでいたので、やっぱり真人の筋肉はすごいな、と改めて実感した。
 一度お見舞いに行った時、「俺、スタントマンになる」と新たに見つけた夢を語る真人は輝いて見えた。
 僕の部屋には、あの時吹っ飛んだ真人の写真が飾ってある。葉留佳さんから貰ったものだ。しっかりとお金は取られた。葉留佳さんは、「私、戦場カメラマンになる」と物凄い目標を立てていた。貰った写真の顔がピンボケで見えなかったので、説得して、諦めてもらった。「じゃあ、植木職人になってみる……」と悲しく語った。
 僕も、真人に勇気をもらった。臆病な僕は、まだ、真人たちみたいに夢は語れないし、思いつかない。
 でも、だからほんの少し。
「すいません、バイト募集を見たんですが……」
 まだ、これぐらいだけど。まずは一歩。








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