花摘み






 尿意はいつだって唐突だ。
 そんな台詞が昔読んだ漫画にあったような気がするが、どう考えても気のせいだ。
 僕は今、これまで生きてきた中で一番トイレに行きたいと願っている。この史上稀に見る高速ピストン貧乏揺すりがその証拠だ。さっきの休み時間に眠いからといって利尿作用抜群のコーヒーを二杯も飲んだのが原因なのかもしれない。時計を見ると、まだ授業開始から十分も経っていなかった。
「ハアハア」
 荒い息遣いだ。ドクドクと、心臓が耳の横にあるみたいに、その鼓動がよく聞こえる。
 寄りにもよって、現在の授業は抜き打ちテストだった。点数の悪かった者は課題を出すから放課後に残れ。教師の悪人の様な笑みが瞼の裏に焼き付いて離れない。超ぶん殴りたい。テストに集中しようにも、僕の膀胱がクーデター起こしよってからに、それどころじゃない。横の真人は既に瞼を閉じていた。閉じた瞼にマッキーで目が書いてあって、まるで寝ているのに起きているかのようにカモフラージュしようとしていた。何故か黒眼部分をペパーミントグリーンで塗りつぶしていた。きっと黒色が無かったんだろう。なんでレアな色はあるのに黒とか一番使う色が無いんだよ! っていつもみたいにツッコミ入れてあげたいけどごめんね真人。僕それどころじゃないんだ。
 もう一度時計を見る。あれからまだ五分も進んでいなかった。ついでに問題も進んでいなかった。真人からいびきが聞こえる。真人の眠りの深さだけ進んでいたようだ。豪快に寝過ぎだろう! っていつもみたいにツッコミ入れてあげたかったけどごめんね真人。僕の斜め前に先生が立っていた。丁度、真人の席の前だ。先生は真人の体に縄を巻きつけ、きつく縛り、そのまま真人を引きずって教室を出ていった。顔を床でゴリゴリ削られながらも一切起きる気配の無い真人は流石だ。面の皮まで筋肉になってんじゃないのかね。流石だよ。さよなら真人。
 と、急に僕の膀胱内で行われていたテロ活動がパタリと停止する。なんだこれ。いや、これは保健体育の時間に習ったことがある。長距離走で長いこと走っていると急に体が軽くなり、寧ろ気持ち良ささえ感じてしまう瞬間があると。その名も、セカンドウィンド。この尿意との戦いも、長距離走と言っても過言では無い。僕の尋常では無い汗の掻き方がそれを物語っている。背中は全体濡れている。股もびっしょりだ。おっと、股もびっしょりと言っても、尿漏れでは無く、汗によるものだから安心してくれ。まだ僕は大丈夫だよ。いける。今の内にテストを解ける限り解くのだ。集中した僕は、次々と問題をクリアしていきそうだったけど、すぐにあいつが来た。そう、尿意だ。油断したせいで、さっきまでより臨界点に近い場所に来ている。押してダメなら引いてみろ戦法に見事に嵌ってしまった。僕はピエロだね、ふふ。
 再び始まった上に更に進化を遂げてしまい、超高速ピストン貧乏揺すりGTの領域まで踏み込んだ僕の下半身。どうにかならないだろうか。頭を回す。ぐるぐる回す。僕は左足の上履きを脱いだ。右足は、究極マッハピストニング広角打法貧乏揺すりMX状態である。尻を上げ、上履きを脱いだ左足をゆっくりと上げたそれと椅子の間に挟む。そして、再び腰を下ろす。僕の踵は、ピンポイントで尿管というホースを堰き止めていた。今まさに僕は頭脳で尿意を打ち負かしたのだ。これで尿意という脅威は無くなった。さあ、テストの続きをやろうか。
「んー」
 問題を数問解いたところで、僕の喉からそんな声が漏れだした。この尿管ストップ座法には少し欠点があるようだ。それは、気合いだけはいつもの五倍以上増えてしまうということ。息が荒い上に、んーんふー、という鼻からの吐息が出てきたら、それはもう完全に不審者ではないか。なんということだ。時計はやっと十分を回ったところだった。これでは確実に決壊してしまう。
 簡単な解決方法はあるのだ。先生に「お手洗いに行ってもよろしいですか?」と聞く。ただそれだけだ。しかし、それをしてしまうと今まで築き上げてきた僕のアイドルイメージが崩れかねない。アイドルはトイレになんて行かないから理樹も行かないんだ! と力強く言い放ってくれた真人との友情をも反故にしてしまう。それだけは絶対にしてはいけないことなのだ。
 苦戦しつつも、テストは半分は解けた。時間も三十分を回っていた。この調子でいけばなんとかなるかもしれない。淡い希望に縋りつき、僕は必死に我慢をする。だが、そうそう上手くいかないのが人生である。神は僕に更なる試練を与えたもうた。こんちくしょうめ。
「へっくし!」
 なんとくしゃみが出たのだ。僕の口からね。今ので、ギリギリだったものが表面張力で保っているレベルまで引き上げられてしまった。正にオウマイゴッド!
「ゴッドブレスユー」
 そう教師が言った。うるせいアホ死ね。いや、ダメだ。怒りに身を任せては奴の思う壺だ。奴って誰だ。こういう時は深呼吸をして落ち着こうじゃないか。いや、深呼吸をしたらダメだ。ビュッといく。ビュッといくよー。いっちゃうよー。駄目だ駄目だ。しかし、呼吸法という考えはいい。僕の知っている呼吸法を試す時が来たのだ。恭介に借りた漫画に載っていたぞ。呼吸法により、髪の毛が強化されてビール瓶に刺さると訳の分からんのがあった。もうダメ元でやるしかない。きっとそれで尿道が強化されてなんとかなるかもしれない。ヘソの下に意識を集中する。
「ヒッヒフー。ヒッヒフー」
 確かこんな感じだった気がするんだけど。でも、これ出産の時にもやるよね。あ、やっぱ違うよね。ごめん。やっぱ無し。生まれちゃうよー。
 慌てて呼吸法を変えるとゴリラの吐息みたいになる。なんだかもう自分でもよく分らない状態になってきたよ。時計を見る。あと五分でチャイムが鳴る。な、なんとかなりそうだ。テストは完全に死亡してしまったが、それは今の状況ならばしょうがないことだ。体調が悪かったのでとでも言い訳すればいいかな。ていうか、それで保健室にいけば良かったんじゃ……。いやいや、これがベストの方法だった。これを乗り越えることで僕は一皮剥けた男になれたのだ、きっと。しかし、この『授業が終わるまでの残り五分』という時間は何故長く感じるのだろう。体感的に言えば、授業中盤あたりの十五分に匹敵する長さではなかろうか。教師は固有結界で精神と時の部屋でも作りだすことが出来るのだろうか。なんという魔術師。後はもう頭の中で時間の代わりにクドでも数えればなんとかなるはず。クドが一匹、クドが二匹……。と、三匹目のクドが何故か裸体で御登場だ。これはヤバイ。今股間部分に異常が発生すれば、イコール死亡である。他のものを数えよう。鈴が一蹴り、鈴が二蹴り……。パ、パンツ丸見えじゃないか! これじゃ逆効果だよ! ね、猫だ! 猫を数えるんだ!
「はい、終了ー」
「あ」
 教師の声と共にチャイムが鳴り響く。一番後ろの席の子が僕のテスト用紙を回収していく。周りではあそこの答えはどうとか、そんな他愛無い会話が聞こえた。
「じゃ、号令」
「きりーつ」
 学級委員のやる気の無い号令が掛かる。僕はその声に反応して、ビッと背筋を伸ばしつつ立ち上がる。その瞬間に脱いでいた上履きを履きつま先立ち。「れい」ぺこりと三ミリほどお辞儀をして、僕はトイレへと向かうべくダッシュを決めた。いいスタートを切れたと思う。大地を蹴る足は軽い。これでこの地獄から解放されるのだ。あとは階段を降り、誰もこないトイレで垂れ流すだけだ。ガラッと勢い良く戸を開け、柱を握って飛び出す。
 そこには真人が転がっていた。
 完全に勢いのついた僕は止まれず真人に蹴躓く。
「に、にょおおおおおぉぉぉぉっ!」
 にょー。











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